子供時代から
今に至るまで
elementary school小学校時代
私の出身は江波です。ここ数年は、マンションや新しい家が立ち並び、ニュータウンのようにきれいになっていますが、当時は広島市中区とは思えないほど田舎で、道路もコンクリート舗装されておらず、砂利道を通学していました。
よく山に(江波には江波山と皿山と二つあります)段ボールなどを持ちより、基地を作って遊んでいて、10メートル位の崖のぼりをしたり、今思うと命綱もなしによくあんな怖いことをよくやっていたなと思います。勉強はほとんどせず、毎日宿題以外は遊んでばかりいました。
junior high school中学校時代
剣道に燃えていました。剣道部はかなり厳しく、授業が始まる前にも1時間くらい朝練があるような(昼練は毎日)部活で、朝連だけで5キロ位走りこみなどしてそれから授業が終わったとたんに夕方2、3時間位練習して帰るというハードな日々でした。
ただ、結果はあまり振るわず一度地区大会で準優勝した程度でした。一応2段までは取りましたが・・・。
high school高校時代
水球に燃えていました。「水球部に入ったら勉強する時間が無くなるから入らない方がいい」と先輩から聞いていましたが、当時「岩崎恭子」にあこがれていた私は迷わず入部を決めました。ただ、その時競泳と水球は違うということに気づいておらず、岩崎さんの専門の平泳ぎは競泳なので、水球はまた別ということが分かったのは入部数か月たってからでした(遅すぎです…)。でも、そのころには水球の魅力に取りつかれていた私はそのまま、部活を続けることにしました。
強化練習では朝連だけで10キロ!泳ぐなど、かなり厳しい部活で、夕方も4時位から遅いときは夜11時位まで、練習していました。競技人口が少ないこともあり、「国体強化選手」には選ばれましたが、水球をするには体格が小さかったせいもあり、結局国体出場には選考漏れをしました。ただ、チームがまとまることの大切さ。メンバーとのコミュニケーションの取り方など学ぶことも多く、その時のチームメンバーとは今でも食事に行くことがあり、生涯の友人を持てたのは自分にとってはとてもうれしい事でした。
university大学時代
バドミントンに燃えていました。これもまた、厳しい部活で、一年生の新入部員が8人いたのですが、3か月で次々と人が辞めていき私と女子1人の二人のみになってしまいました。8月には「オールデンタル」といって歯学部学生の全国大会があるのですが、その雑用は全部1年生がやることになっていて、水の補給、声だし応援、食料の補給、買い出し、ビデオの録画、などでするのですが、一番しんどかったのは試合で汗まみれになったウェア全員分をコインランドリーで洗って、乾燥して、それぞれの先輩のものに分けてきれいにたたんで渡す。という作業でした。深夜までかかりましたが、次の日の朝には6時起床で試合会場へ、という5日間でした。5日間で5キロ痩せました(泣)。
ただ、その後部長が変わり、今度は逆にすごくゆるくなった事もあり、2年目からはバイトやコンパ(笑)に精を出していました。バイトは「ヤマザキパン」、「家庭教師」、「塾の講師」「パチンコ屋」、「イタリアンのレストラン」などいろいろなものを経験しましたが、すべてが今の自分に活かされていると思います。
部活は5年生で部長に任命されたのですが、なぜかそこですごくスイッチが入ってしまって、もともと「国体強化」の練習をしていた為、その程度の練習が当たり前だと思っていた私は、ものすごく厳しく練習をするようになりました。この頃は自分自身デンタルで優勝したい、チームとしても強くなってほしいという思いで、必死で練習をしていました。
ただ、その時は「練習がきつすぎる」「もう辞めたい」「だれだれがさぼっている」「部長(私)がひいきしている」など部員から色々な意見を出され、この時に解決法を必死で探していた事が今の経営者としての自分に生かされていると思います。
結果は全国で、個人はシングル、ダブルスともに5位。大学全体としては2位に入り優勝はできなかったものの、自分なりに満足出来る結果となりました。
この時、日々努力することはしんどいことだけど、自分を信じて頑張れば必ず結果はでるんだということを知りました。また、部長を辞める時「部活を辞めたい」と相談してきていた後輩から「やっぱり続けてよかったです」といってもらえたことは自分の財産だと思っています。
部活が終わると次に待っているのは歯科医師国家試験です。私が受けた年の一年前は合格率が90%以上あって、受ければ通るレベルだったのですが、最近よく報道されているように、歯科医師過剰ということでこの年から急に難しくなって合格率は70%以下まで落ちた年でした。試験の傾向がすごくかわっていて、過去問では見たこともない形式の問題などもあり、正直自分で通った気がしませんでした。通知書が送られてきて合格と書いてあった時は、人生で一番うれしかった事を覚えています。
大学には地下室があって、そこにみんなで集まって朝から晩まで勉強して、時々夜飲みに行っていたのですが、そのメンバーと国試会場で取った写真です。
みんなから達成感が出ていて、自分にとって大好きな一枚です。
medical office医局時代
大学卒業前に就職活動として色々な医院を10件近く見て回りましたが、決め手がなく、学生時代に本物の患者さんの義歯を自分で作って入れて使ってもらう、という実習がすごく楽しくて、(自分が作ったものが患者さまの口の中で機能するってすごくないですか!?)第二補綴科という、かぶせ、ブリッジ、インプラントの上部構造、義歯などを扱う医局に大学院生として入局しました。
「白い巨塔」さながら、新人医局員の生活は朝の掃除、ゴミだし、郵送物の仕分け処理に始まり実験、臨床、技工、学会出張でフル活動。雑用も多く500ページはある科学雑誌を渡され「これ、全部二部ずつコピーして。30分以内にな!」なんてのもしょっちゅうでした。で、「閉じ方が悪い!」「やり直し!」。
まあ、上司のいうことは絶対、の世界だったわけです。残念ながら医局に労働基準法は適用されないので(多分…)一日16時間は働いていたと思います。
研究は「睡眠時の歯ぎしり」だったのですが、被験者が寝るのを見計らって、自宅に帰り被検者よりも先に起きなくてはならなかったので、睡眠時間は3,4時間程度。しかも2件掛け持ちでそれをしていたりしたので本当に大変でした。
ただ、普通ではできない事を多く体験することが出来ました。例えば北海道で学会があり、メインスピーカー「ピータースベンソン」先生のお供をするという大役を任せられた事は思い出に強く残っています。この方は世界で3つの指に入る「痛み」についての研究者の一人で、東京から札幌のホテルまで同行し、学会当日は会場までお送り。夜はキャバクラ、小樽でバーベキュー、二人で有名なラーメンを食べる。などかなり緊張しながら接待をした思い出があります。
一番困ったのはホテルにつくなり、「泳ぎたい!プールはないのか?」といわれた事です。もう秋になっていたし、いろいろ探してもどこもなくて、困り果てていたら、なんとそのホテルにプールがあったという・・・。
まさに「灯台元暗し」。「助かったー」という感じでした。
他の思い出はオーストラリアでポスター発表をしたことでしょうか。自分のしている実験を一枚の大きなポスターに書いて発表するのですが、研究内容について質問をされる時間が1時間位もうけてあって、発表者はその時間ポスターの前に立って質問に答えなければならないのですが、なるべく「外国の人来ないでー」と思いながら1時間耐えたのを覚えています。
elementary school笠岡第一病院時代
何とか4年間の大学院生活を乗り切り。論文発表も済まし「歯学博士」の称号を手に入れた頃、教授から直々に総合病院で歯科を作ってみないか?とお話がありました。4年間過ごしてみて、大学は臨床をするというより、研究をする所で、私の場合は臨床力をもっと上げたいなと思っていた為、二つ返事でやりますと答えました。そこには大きな苦労が待っていたのですが・・・。
実際その総合病院のスタッフは400人を超えるかなり大きな病院ですが、その中に歯科の知識が少しでもある人は一人もおらず、歯科用の部屋があるだけで配管などの工事図面、買うべきもの、保険点数、などなどすべて自分でやらないといけない状態でした。最終的には他に出来る人もいないので、建設会社、歯科商店、その他もろもろいろんな人にアドバイスをもらいながらなんとか歯科部門を立ち上げる事が出来ました。ただ、この時一度開業するという経験をしたおかげで、私自身が開業した時、いろいろ注意点など理解できており、大きなミスがなかったのはこの経験があってこそだと思いました。
この病院では、歯科治療はもちろんですが、何度かラジオ出演させていただいたり、300人以上のセミナーを開かせてもらうなどとてもいい経験が出来ました。患者満足度アンケートでは全科で1位になるなど、充実した日々でした。
私は最終的に、開業して自分の医院を持ちたいという思いがあったため、許可を得て、開業準備のための参考として某大手歯科医院や、外科研修として某総合病院にも定期的に仕事をさせてもらいに通っていました。
また、セミナーや勉強会にも積極的に通い、受けたセミナーの数は講演、実習含めて、100は超えると思います。また、20件近い開業医さんにも見学に行かせていただきました。
習ったことを病院で実際にやってみて、またセミナーを受け、またやってみる、という感じで歯科技術はこの頃が一番伸びたような気がします。
歯科立ち上げから5年たち、後身を育て、もう大丈夫ではないかという思いと、自分がいることで逆に今後歯科が伸びていかないのでは、と思い病院歯科は後身に譲り開業することを決めました。
until opening開業まで
開業場所を探すのにインターネットだけ見たものを含めると100件以上は見ました。実際に見たものも30件以上は見たのではないでしょうか。副院長同行で、週末になったら高速を飛ばして笠岡から広島に来て物件を見れるだけみて帰るというような事を半年位は続けました。
今の開業した場所は、コンビニ跡地だったのですが、その時は短期賃貸のマンションギャラリーになっていて、第一印象がとてもよくて、ここで開業したいと思いました。ですが、国道沿いで大きさもあったので家賃がかなり高めだった為、いったんあきらめて、半年間いろいろ回ったのですが、やはり今の場所の事が頭から離れませんでした。
結局またここに戻ってきて不動産の担当の人にまだ、空いてるか聞くと「全然あいてますよ!」と。しかも次に入る人も決まってない。マンションギャラリーの前もなかなか借り手がつかなかったんだと。その電話でこれはいけるかもと思った私は、図面に自分で設計図を書いてこんな医院にしたい、とプレゼンをしにいきました。ただ、今の家賃では厳しいからこれ位に…。と。
数日後、電話がかかってきて「その家賃でOKです。」
マジで!と思いました。大家さんには大感謝です。
それが、とよた歯科クリニックの始まりだったのです。